成長という花は、挫折で咲く
挫折という贈り物
プロJMKスケーターを目指していた私は、足首の重度の怪我により人生の岐路に立たされました。
足首3か所の骨折と靭帯損傷で、愛知初のプロライダーになる夢は突如として遠のき、仕事も日常生活も全てが止まってしまいました。 入院生活の中で味わった孤独と絶望。
しかし、当時の妻による献身的なサポートや、「怪我のせいにしたくない」という強い意志が、私を前に進ませてくれました。
必死のリハビリを重ねる中で、健康であることの尊さと、周りの人々への感謝の気持ちを深く学びました。
「健康は全てではないけれど、健康を失えば全てを失う」 この経験は、見えていなかった大切な景色を教えてくれました。
今でもプロライダーへの未練は残りますが、怪我があったからこそ気づけた、人とのつながりの温かさと生きる喜びを大切にしています。
子育てで見つけた新しい愛おしさ
私はずっと子供が苦手でした。 しかし、自分の子供を持った時、人生で初めて赤ちゃんの可愛らしさに心を奪われました。
それは想像もしていなかった感覚でした。 子育ては毎日が挑戦の連続。 言葉を話せない赤ちゃんの泣き声から気持ちを読み取ろうと必死でした。 夜中の突然の泣き声に戸惑い、元妻に叱られ、睡眠不足に悩まされた日々。でも、そのすべてが今では愛おしい思い出です。
日々成長していく我が子の姿は、私の人生で最も大切な宝物となりました。
今は離婚して月に一度しか会えませんが、その時間が何より貴重です。
不思議なことに、子育ての経験を通じて、他人の子供たちにも自然と愛おしさを感じられるようになりました。
子育ては大変でしたが、自分自身に新しい優しさと視点を与えてくれた、かけがえのない経験となったのです。
受け取る愛から、与える愛へ
2024年6月、それまで4年間共に歩んだ彼女との別れは、私の人生に大きな転機をもたらしました。
離婚後の鬱や家庭裁判所での苦しい日々、生活が荒れていた時期を、彼女は常に支えてくれていました。
その事実に気づいたとき、胸が温かくなると同時に、自分の未熟さを痛感しました。 彼女は私に多くのものを与えてくれました。
けれど、私は十分な見返りを示すことができず、自分の成長も止まっていました。
そんな自分に気づいた別れの日から、私は変わることを決意しました。
何が足りなかったのか、何がダメだったのか、ノートに書き出し、一つ一つのマイナスをプラスに変える努力を始めたのです。
あれから約半年。毎日が自問自答の連続です。「本当に成長できているだろうか」「確実に変われているだろうか」。
でも、この問いかけ自体が、かつての私にはなかった。
いつか彼女に再会できる日が来るかもしれない。その時は、「あの時とは違う、成長した自分」を見せたい。
この思いが、私の日々の自己啓発の原動力となっています。 感謝の気持ちを胸に、より良い自分を目指して歩み続けること。
それが、彼女への最高の恩返しになるのかもしれません。まだ見ぬ再会の日まで、私は自分を磨き続けます。
傷跡が描いた、未来地図
19歳の春、第一志望の大学に落ち、滑り止め校に進学した私は、どこか空虚な日々を送っていました。
「みんなと違う何か」を求めて彷徨う中、一筋の光明として現れたのがプロダクションの面接でした。 合格は果たしたものの、現実は想像とかけ離れていました。しかし、その過程で出会ったダンスに心を奪われ、運命的な出会いのように感じました。
「ダンサーになる」その決意は、当時の私にとって人生で初めての明確な目標でした。
1990年代後半、ヒップホップカルチャーはまだアンダーグラウンドな存在。インターネットもない時代、情報を得ることさえ困難でした。
それでも、私は不安を抱きながらもがむしゃらに踊り続けました。プロダンサーという狭き門に向かって、ただひたすらに。
しかし現実は厳しく、商業的な成功からは程遠い日々。それでも情熱だけは誰にも負けないと信じていました。
しかし23歳で訪れた度重なる怪我は、その夢を打ち砕きました。不安と焦りの中での断念。あの日味わった絶望は、今でも鮮明に覚えています。
けれど、時が教えてくれました。あの必死で夢を追いかけた日々は、決して無駄ではなかったのだと。
今の私がどんな困難にも立ち向かえるのは、あの時の経験があるから。19歳の無謀な挑戦は、私の人生の貴重な財産となったのです。

ライター名:しげき
居住地:愛知県
年齢:40代
ライターからひと言: イケオジ起業家なりたい!