声を聴くと見えるもの
型にはまれなかった幼少期
幼い頃から、組織に馴染むのが苦手だった。 幼稚園での夢は「おばあちゃんになること」。
「なぜ鳥は一日中自由に飛び回っているのに、人間は毎朝7時に起きて、一番楽しい時間を学校で過ごさなきゃいけないんだろう?私は早くおばあちゃんになりたい。」
そんな私に、祖母はいつも「私はあなたになって走り回りたいけど」と笑って返してくれた。
小学校もよく休んだ。
先生に「どうして休むの?」と聞かれても「行きたくないから」としか答えられず、当時“不登校”という概念もなかったから、地元の田舎ではかなり“変わった子”だったと思う。
普通になりたかった高校時代
高校に入っても、組織に馴染むのは苦手だった。
時々登校しても、昼休みには抜け出して帰ることもしばしば。 ここでも私は“変わっている子”のままだった。
ある日、国語の授業で「桜吹雪を見て何を思うか」と質問され、「寂しいです」と答えたが、それは先生の期待した答えではなかったらしい。
「それはおかしい。誰か〇〇に答えを教えてやれ」と、面倒くさそうに近くの男子が当てられた。
「潔い、です。」 「そうだよなぁ。」 先生は満足そうに次の問題へと進み、私は決まりの悪さを隠すようにそっと腰を下ろした。
普通の答えを探し始めたのは、この頃からだった。
社会に適応できない20代~30代
“普通”の仮面を被った高校生は、なんとか受験を乗り越えて大学へ進学した。
大学生活はそれなりに楽しんだが、自分が何者で、何が好きなのかさえわからず、時には自分が存在することが恥ずかしいとも感じていた。
就職活動は、まさに苦闘の連続。
どこに向かえばいいのかもわからない。
見かねた兄が紹介してくれた会社でどうにか新卒採用を得たものの、結局そこでも馴染むことはできなかった。
入社から1年後、大学時代から付き合っていた夫と結婚し、彼の転勤に合わせて寿退社。
二人の子どもにも恵まれ、プライベートは充実していたが、仕事では相変わらず馴染めない自分がいた。
フリーランスへの転機は子どもの不登校
長男が中学に入学するタイミングで、夫の地元に定住することにした。
これで子どもたちも安心して学べると思っていた矢先、長男が突然学校へ行かなくなった。
最初は理由もわからず、毎朝起こしていたが、ある朝、息子の腕を掴むと、まるで力が抜けたかのようにダランとしていた。
「ああ、これは無理だ」 そう感じた瞬間だった。
彼は「部屋に籠ると何かに襲われる」「寝るとどこかに連れていかれる」と言い、毎晩リビングでゲームをして夜を明かすようになった。
私の1日は、夜中の食べ残しや、こたつで眠り込む息子を見ることから始まる。
この頃から、2階の寝室から階段を降りる前に「何があっても受け入れよう」と自分に言い聞かせる習慣ができた。
不安や不満でいっぱいだったが、それでも息子は愛おしい存在だった。
彼が作ってくれる朝食はいつも世界一美味しく、描く絵は「天才だ」と思うほど感動させられた。
そんな彼を見ているうちに、「せっかくレールから外れたのだから、自分らしく生きてほしい」と願うようになり、自分も「自分らしさ」を探そうと決めた。
これがフリーランスに転身する大きなきっかけとなった。
自分らしさを取り戻す日々
フリーランスになり、一人の時間が増えると、自分と向き合わざるを得なくなった。
本当は何がしたいのか、何を幸せと感じるのか。
「自分らしさってどこに行けば見つかるんですか?」と道行く人に聞いて回りたい気持ちだった。
「やっぱり何もない」と何度も後退したくなったが、ここで諦めては、また苦しむだけだ。
自己分析、カウンセリング、コーチング、ジャーナリングなど、さまざまな方法を試し、もらった仕事には全力で応えた。
そのうち、「ちゃんと抗ってきたんだ」「凸凹してるけど、それで完璧なんだ」と自分を受け入れられるようになった。
自分を受け入れることのギフト
自己受容は簡単そうで、とても難しい。
でも、自分の欠点や恥ずかしい部分を受け入れた先には大きなギフトがある。
今でも悩みは尽きないが、遠回りしながら、ようやく“自分らしさ”を取り戻しつつある。
息子の不登校中、「親が変われば子どもも変わる」と何度も言われ、自分を責めたこともあったが、今でははっきりと伝えられる。
「私は私のままでいい」と許可を出すこと、それが私にとって“変わる”ということだ。
もし過去の自分に声をかけられるなら、「よく頑張ったね。これからは仲良くしよう」。
今では、かつての自分が少し愛おしく、そして少し笑えるようになった。
ペンネーム どらやき
鳥取県在住。
40代。